八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を
学生スタッフのR.T.です。今回は日本神話について語ろうと思います。このテーマに至ったのは、以前島根県を訪れた際、出雲大社はもちろんのこと訪れた各地で神話を大切にしているということを実感し、その内容に興味をもつようになったからです。また、異文化交流に身を置く立場上、この国のなりたちについてある程度、説明できるようになりたいと常々思っていたこともあります。
◆「日本」神話と古事記
参考となる書物は奈良時代成立の『古事記』と『日本書紀』、そして各地の『風土記』などがあります。日本書紀と風土記はともに漢文体=中国語で書かれ、前者は公式の歴史書、後者は地方から中央政府への報告書であるのに対し、古事記は土着のヤマトことばを文字化してまとめられた奇妙な書物。乙巳の変の折に『天皇紀』などの史書が焼失するも、内憂外患が重なり大化の改新を推進する中大兄皇子(天智天皇)は史書編纂に着手できませんでした。彼の死後、皇位をめぐって壬申の乱が起き、勝利した弟の大海人皇子が天武天皇として即位します。しかしこの内乱の結果、都は荒廃し、しかも天皇は兄の子を殺して即位したため、正統性にも危うさがありました。また朝鮮半島では新羅が統一を達成、膨張を続ける中国・唐王朝と軋轢が生じ始めるなど、倭国は東アジアの緊迫した国際状況下に置かれていました。ここで天武天皇は新たな国号として「日本」、君主号に「天皇」を採用し、それにふさわしい新たな国史の編纂を命じます。その後、元明天皇の治世に、稗田阿礼がその国史(原資料といえるもの)を誦習し、太安万侶が注釈・編集を加えることで古事記が成立しました。この歴史的経緯をみると、ある程度、古事記が作成された目的が推測できます。すなわち、新しい「日本」という国家が始動するために、旧来の秩序を否定し、天皇家の正統性を付与するための物語が必要とされたこと。大王と豪族の合議制であるヤマト王権の体制を再構築し、天皇中心の中央集権体制すなわち律令国家を確立していくうえで、その体制に適したふさわしい神話が必要とされたのだと考えられます。この恣意的なねらいをむしろ考慮しながら読み進めていくほうが、人間の感性では捉えにくい神々の世界の動きも、ある意味で理性的に考えられるようになると私は思います。
◆天地初発から天孫降臨、日本建国まで
古今東西、神話に求められる役割とは、世界や人類がいかにして現在の姿となったかを説明し、そのうえで今を生きる人間に道徳と行動規範を授けることにあります。日本神話も同様に、宇宙の成り立ちに始まり、神々の時代から天皇の時代までを一連の筋書きのなかで描きます。ざっくりとしたストーリーで分類すると以下の8つになります。
一章.天地初発…アメノミナカヌシ
二章.国生み…イザナキ・イザナミ
三章.世界の分治…アマテラス・スサノオ
四章.地上世界の王…オオクニヌシ
五章.国譲り…タケミカヅチ
六章.天孫降臨…ホノニニギ
七章.地上の支配…ヒコホホデミ
八章.初代天皇…カムヤマトイワレヒコ
原初世界には高天原という天上世界が存在し、そこにアメノミナカヌシという神が現れることで世界が動き始めます(一章)。天の神から混沌の下界を鎮めるよう命じられた男女神イザナキ・イザナミは、この国の大地や多くの神々を生みました。火の神を生んで死んだイザナミをイザナキは黄泉国まで追いかけますが仲違いし、生者と死者の世界が分離します(二章)。イザナキから生まれたアマテラスは高天原を、スサノオは海原を支配するよう命じられますが、スサノオがこれを拒否し大暴れしたことで高天原が乱れました。追放されたスサノオは出雲に降り、ヤマタノオロチを退治して英雄となりました(三章)。地上世界の葦原中津国にいたオオクニヌシは様々な難題を乗り越え、地上世界の支配を行います(四章)。アマテラスは孫のホノニニギに葦原中津国を支配させようと考えてタケミカヅチを派遣し、オオクニヌシは葦原中津国を天の神に譲ります(五章)。ホノニニギは日向の地に降臨し統治を始めますが、呪いを受け天皇家の寿命が縮んでしまいます(六章)。ヒコホホデミとウガヤフキアエズは日向の統治を行う場面で、神から人間としての身体性が付与されていきます(七章)。カムヤマトイワレヒコは日向から東征を始め、大和の地で神武天皇として即位し、日本が建国されます(八章)。話のクライマックスは六章の天孫降臨の場面で、各章は万世一系という天皇家の正統性を裏付けるための伏線として機能します。
◆天津神と国津神
神話の起源は無文字時代の民間伝承に遡ることができます。日本神話が成立する以前にも、我が国にはすでに口承での民間神話が存在し、それぞれの日常生活と深く関わり合いながら信仰されていました。民間神話に登場する神々については、実は、その正体は日本神話の神々と同一であることがしばしばあります。代表的な例を挙げると、四章の主人公・オオクニヌシがいます。民間神話のオオクニヌシはオオナムチと呼ばれ、スクナヒコナという神とともに国作りを司るとして各地で広く信仰されていました。オオクニヌシも国作りの神であることは共通しますが、あろうことか自らの国を天の神に引き渡すという不可解な行動をとっています。またスクナヒコナとともに行動することはなく、美穂の岬という場所で初めて出会います。なぜこのような乖離が生じるのでしょうか。これを理解するために必要な概念が、天津神と国津神の明確な区別です。天津神とはアマテラスやホノニニギのように天上界の高天原にいる・いた神で、国津神とはオオクニヌシのように地上世界の葦原中津国にもとからいた神のことです。アマテラスは天皇家の直系の祖先であるわけですから、地上世界はなんとしてでも天津神が治めなければなりません。すなわち、古事記の制作者はオオナムチとスクナヒコナを分離して民間神話の姿を払拭し、オオナムチの存在を無力化した上で、オオクニヌシという天津神に従順な国津神を創り出すことで、アマテラスの権威を高める物語を演出しようとしていると考えられます。オオナムチとスクナヒコナの二神は、文字時代以前の古い秩序の象徴であり、地上世界の支配権を握っていました。しかしオオクニヌシはというと、天津神に国を譲るために国作りをした天津神のための国津神という存在に落とし込まれたのです。一方のアマテラスはというと、民間神話では女神としてのアマテラスは存在していませんでした。正確にいえば、太陽祭祀で信仰されている太陽神の男神、その妻である巫女・ヒルメがアマテラスの原像です。日本神話では神を祭る巫女を祭られるべき太陽神へと変化させることで、王家だけが独占できる皇祖神を新たに創造したのだと考えられます。歴史的にみれば、ヤマト政権によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神に、ヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったとすればわかりやすいでしょうか。天皇家の正統性擁護という目的のもと、物語を論理的に組み立てるための装置が天津神と国津神であったわけです。古事記は従来の民間神話をただ収集し、再編纂したのではなく、古事記の文脈の中で神話が組み替えられ、それを説明するためのストーリーが神話世界を構築しています。新たに登場すべき神々にストーリーを与えてキャラクター付けを行うことが、日本神話の特徴であるのかと思います。
◆民間神話とのゆがみ
日本神話の神々にキャラクター付けを行うために、古事記は根拠となるストーリーを従来の民間神話に求めました。しかし、口承の時代、神々が執り行う超自然的な現象に対して淵源の解明を必要としないという事態が多々あったため、古事記の制作者は全く新しいストーリーを創り出すこととなりました。ここに無文字の音声を文字言語に変換するゆがみが発生します。「ない」ものを「ある」と定義し直すことは、想像以上に難しいものです。例を挙げて説明しましょう。
五章の国譲りの場面に、タケミナカタという国津神が登場します。高天原からタケミカヅチが国譲りの交渉にやって来た際、タケミナカタは父神オオクニヌシからその決定権を委ねられました。しかしタケミナカタはタケミカヅチとの力比べに敗北し、諏訪地方まで逃走し、天津神に国土を売り渡す結果に終わりました。このような経緯でタケミナカタは諏訪大社の祭神となるわけですが、力で平伏され逃げ帰った神というのはいささか現地でも評判がよくない。その上、諏訪の地ではミシャグジという別の神が既に信仰されていました。ミシャグジは人格神以前の原始的な精霊で、地中に棲む大蛇のかたちで現れる山・水の神です。日本神話ではいわゆるオロチと呼ばれる類のもので、神になりきれなかった化け物のことをさします。有名なスサノオによるヤマタノオロチ退治(三章)を考えてみると、オロチは人身御供を行う古い祭祀形態の象徴であり、古事記ではこれを打ち破り、新しい秩序をもたらす物語が当てられました。しかし諏訪の地ではオロチが退治されることなく、現在まで信仰され続けています。なぜミシャグジは退治されなかったのでしょうか。この場面では、諏訪の大神である「ミシャグジ」を日本神話の神「タケミナカタ」に置き換えるという前提のもと国譲りのストーリーが展開しています。朝廷側からみると、東国へ支配を広げる神話的根拠として諏訪の土着の神話に目を向けてみたところ、ミシャグジというよくわからない古い祭祀が信仰されていたことを知ります。ここでミシャグジが信仰されているという事実だけを借り、タケミナカタという人格神を登場させることで、話の進み具合をわかりやすくなるようにしたのです。諏訪側からみると、タケミナカタの退散でミシャグジが諏訪湖に封じられ、新たにタケミナカタへの祭りが始まったことになります。しかし、現地の人々にとってはミシャグジという名のほうに真実味があり、より生活に根付いたものであったため、ミシャグジ信仰がそのまま生き残ることとなりました。すなわち、ミシャグジを生かすためにタケミナカタの退散が行われたという理解ができます。このようにしてタケミナカタとミシャグジは同一でありながら共存するという、キリスト教の三位一体やヒンドゥー教の三神一体に通じるような難解なものとなったのです。
このようなゆがみは古事記の中で散見されます。二重の意味で読み解けるというのは一見、矛盾を生じさせるようですが、しかし古事記はそうなっていません。これは、そもそも、神にキャラクター性を付与するために物語を創り出しているからです。これを可能にさせたのは、古事記制作者たちの知的手腕によるものと言うことが出来るでしょう。
◆なぜ神話を学ぶのか
以上、日本神話の概論を語らせていただきました。本ブログのタイトルにある「異文化」とは、ヤマト政権においても様々な民族や文化があったことの意味合いで使用しました。日本が大和民族単一の民族国家だと思われている方もいるかも知れませんが、それこそ日本神話的考えであるのだと思います。孫子曰く、「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」。自らの国の成り立ちを知ってはじめて留学生のみなさんに日本の文化を紹介できるのだと痛感しています。逆に考えると、神話を知ることで世界中の様々な地域の人とのコミュニケーションにおおいに役立つのではないでしょうか。二章に登場するイザナキ・イザナミの最初の子・ヒルコと、ギリシャ神話の主神・ゼウスとヘラの最初の子で鍛冶を司るヘパーイストスは、忌子という興味深い共通点があります。また六章でホノニニギが受けた呪いはバナナ型と呼ばれる類型で、東南アジアで同様の題材をもつ神話が広くみられます。もはや人類学の分野になってしまいますが、神話の中に共通点があるということは、我々人間の心の在り方を示すものではないでしょうか。いつの日か、この知識が役立つ時がくれば幸いです。
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